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ORIMPIC EMBLEM DESIGNER
「Landor Associates 東京支社」に転勤して2年、待ちに待っていた「チャンス」が訪れた。
1998年に長野市で行われる冬季オリンピックのシンボルマークのデザインプ口ジェクト。

私がいたブランドデザイン会社「Landor Associates」は、世界中に支社があるグローバルなデザイン
会社であった。
本社はサンフランシスコにあり、ニューヨーク、ロンドン、パリ、メキシコ、香港、台湾……、そして東京と支社が世界中にあった。
オリンピックのシンボルマークのような大きなブロジェクトになると世界中にある支社のネットワークを活かし、全世界の支社の優秀なデザイナーが参加し、シンボルマークデザインのコンペになる。

長野オリンピックのプ口ジェクトの時も当然、世界中のコンペになった。
当時の全世界の支社から100人以上のデザイナーが参加1,000点以上のデザインが東京支社に集まってきた。

時は1993年夏、それは始まった。
当時、私は「Landor Associates 東京支社」でシニアデザイナーとしてコンペに参加した。
当然東京支社のデザイナー全員が参加していてそのときはみなライバル。
個人の凌ぎ合いが始まった。

日本でまだ2回しかやっていないオリンピック。1964年東京オリンピック、1970年札幌オリンピック。
そして、その札幌オリンピックから28年ぶりに決まった長野。
デザイナーにとっては、これほど名誉なことはなく、やりたくてもそのチャンスすら巡り合わないもの。
そのチャンスを恵まれたデザイナーが「死ぬ気」で取り組むのは当然のこと。
私もこのチャンスを掴むべき、いつか来るべき時のチャンスのために磨き続けてきたこの腕、
全力をつくして挑んだ。

その思い入れは、本当に強く、凄いものだった。
デザイナーとして恵まれた最高のチャンス、これを頑張らないで、いつ頑張るのか?
その時もっていた力を全てそそぎ、約2ヶ月でデザインを数点出した。

締め切り後、世界中から1,000点以上のデザインが東京支社に集まり、
一番大きな会議室の壁いっぱいにデザイン画が貼られて、候補案が絞られていった。
当然、一回では収まらない数なのでこれを何回か繰り返し、社内候補案が選ばれていった。

そして社内選考で選ばれた十数点が、長野オリンピック組織委員会にプレゼンテーションされた。
幸運にも私のデザインのひとつが、その社内最終候補案の中に残っていた。

長野オリンピック組織委員会に何回かプレゼンテーションを重ねていき、最終候補案が3点まで絞られた。
その3点の中に、私のデザインは残っていた。
その時の心境は、「嬉しい!」を通り越して「超緊張!」「居ても立ってもいられない!」
「心臓バクバク!」 夜も眠れない心境でした。

しばらくして、初めて緊張が大きくなり「ここまで来て落ちたらショックだなぁ…!」
「ここで落ちるなら、もっと前に落ちていた方がよかったなぁ…!」と思うくらいの緊張感。

なぜなら、デザインに2番目はないからです。
オリンピックのマークとして一つしか採用されないからです。
オリンピックの競技なら1位から3位まではメダルがもらえるのに、デザインでは金メダルしかないのです。
2番になっても、まったく日の目を見ない、意味の無いものになってしまうのです。

だから胃が痛くなるくらい緊張しました。

その緊張する時期が続き、とうとう最終決定の日。
私は会社でいつも通り仕事をして待っていました。

ブレゼンテーションに行っていた上司のディレクターが戻ってきて、私のところへやって来ました。
「篠塚君のデザインに決まったよ!!」と。

飛び上がって喜ぶというよりも、
しばらくは「信じられない…。」という感じで、感無量の喜びが…。
今でもハッキリと覚えています。

あの瞬間、今思い出しても涙がでます。

デザイナーとして、目指してきた大きな目標を達成した瞬間。
自分がデザイナーという職業を選んで、本当に良かった!と思うことができたし、
自分が信じて今まで一生懸命やってきたことが間違いでは無かった!
ということが証明できて本当に嬉しかったです。
1993年33歳の時でした。

デザイナーにとって、これほど名誉なことはありません。
そんな名誉なシンボルマークをデザインできたことにこれからもずっと感謝していきます。
そして、グラフィックデザイナーという仕事に就けたことに本当に感謝いたします。